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  • 執筆者の写真高岡洋詞

ブーガルーは誰のものか──人と文化の混淆を象徴した言葉が「内戦」の符牒になるまで

 タイトルはこうしたが文章の流れは逆コースだ。最近よく目につくようになった「ブーガルー」という言葉には歴史がある。その意味の変遷を、現在を起点に過去へとさかのぼって見直していく。

 このテーマでは音楽批評ユニットLL教室のハシノさんが先にすばらしいブログ記事を残している。蛇足覚悟で書くのは、僕が音楽としてのブーガルーが大好きで、アメリカの新興極右勢力に名前を奪われたことへの憤りを抑えられないからである。

 2020年のいま、ブーガルーは「第2次内戦」やそれを望む武装勢力を指しているのかもしれないが、本来は最高の音楽を意味するイカした言葉なのだ。


ジョー・バターン、ウィリー・コローン、エクトル・ラボー、エレクトリック・ブーガルーズ

1960年代に花開いたブーガルーの担い手ジョー・バターン、ウィリー・コローン & エクトル・ラボーと、1970年代から活躍するダンス・チームのエレクトリック・ブーガルーズ


●新興の極右過激派 “ブーガルー・ボーイズ


 最近、日本のメディアでも「ブーガルー」という言葉を見かけるようになった。ミネソタ州ミネアポリスでの白人警官による黒人男性暴行死事件をきっかけに、全米に広がる抗議デモの混乱に乗じて台頭してきた極右過激派勢力を指す言葉である。報道で挙げられている特徴はざっとこんなところだ。


★ “ブーガルー・ボーイズ” はデモや集会の場にアロハシャツを着てライフル銃などで武装した特徴的ないでたちで現れる。暴力の扇動や警察官の殺害に関わり逮捕・起訴される者も出てきている。

★組織化はされておらず、ナショナリズム、ネオナチズム、白人至上主義、リバタリアニズム、アナキズムなど思想的バックグラウンドもさまざま。共通点は武器を好むことと政府の干渉や法律などによる権利の制限を嫌うこと。銃規制反対。

★つながりはインターネット。発祥は日本のふたば☆ちゃんねるの影響で生まれた匿名掲示板4chanで、Facebook上にはブーガルーを掲げるグループが多数存在し、武器や爆発物の扱い方、武装蜂起の計画について議論している。YouTubeにも多数の動画を上げている。

★究極の目標は暴動、内戦、社会の崩壊、革命など。

★今年1月のヴァージニア州リッチモンドでの銃規制への抗議集会あたりからメディアの注目を集め始め、COVID-19対策のロックダウン(都市封鎖)に反対して経済活動の再開を訴える集会、最近ではBlack Lives Matterデモにも姿を見せる。

★ブーガルー(“big luau” “big igloo” などの隠語も使われる)は運動そのものだけでなく、来るべき(と彼らが考える)内戦をも指す。


ブーガルー・ボーイズ

 僕が初めて目にしたのは5月くらいだったと思う。BLMへの関心からアメリカの報道に目を通す機会が増えたためだが、とにかくその名称に強烈な反発を覚えた。なにしろ僕が長年愛好してきた音楽ジャンルと同じなのだ。


 何がどうして極右勢力が「ブーガルー」なのか。まずWikipediaを読んだのだがいまいちわからない。リンクが貼られていたナショナル・パブリック・ラジオの記事を読み、ざっくり経緯を把握して以下のツイートをした。



 NPRの記事では彼らが言うところの “市民戦争2” あるいは “第2次内戦” を人種間対立に引きつけて受け止めていて、その論調に僕も影響されたが、調べを進めていくと少し様子が違う。警察官に殺されたジョージ・フロイド氏の写真を掲げて「だからこそ公権力と戦わなくてはならない」と訴えるなどBLMに同情的な主張もあり、あくまで主眼は政府や公権力に対抗することにあるようだ。ただし実際にネオナチや白人至上主義者のグループと絡むことも多く、人種差別的、排外主義的な言葉が飛び交ってもいるらしい()。


●名称の由来はブレイクダンス映画……!?


 話を戻す。先に掲げたツイート通り、「ブーガルー」の出どころは映画 Breakin' 2: Electric Boogaloo (邦題『ブレイクダンス2 ブーガルビートでT.K.O!』)だった。1984年5月公開の大ヒット作 Breakin' (同『ブレイクダンス』)の余勢をかって同年12月に公開された続編だが、大コケした上に評価もさんざんだったそうだ。なお僕は未見である(第1作のほうは大昔に見た)。


Breakin' と Breakin’ 2: Electric Boogaloo ポスター

Breakin'Breakin' 2: Electric Boogaloo のポスター


 駄作はときにカルト化する。Breakin' 2: Electric Boogaloo もそのパターンだった。タイトルがひとり歩きしてインターネット・ミーム化し、主にゲーマーや歴史オタクの間で消費されてきた()。映画にとどまらず、TVドラマから書籍、人物、政治やスポーツまで “ダメな続編” 全般を “なになに2: Electric Boogaloo” と揶揄するわけだ(ロック・バンドの曲名やテレビ・ドラマのエピソード名、雑誌記事の見出しなどでも使われた)。こうしたネタのひとつが “Civil War 2: Electric Boogaloo” だった。


 日本語ではcivil warは「内戦」と訳され、アメリカ国内ではAmerican Civil War、つまり南北戦争を指す。 “Civil War 2: Electric Boogaloo” とはつまり内戦の “続編” のことだ。暴力とギャグの最悪の結合。この言葉は4chanの武器板を舞台に、銃器、内戦、社会の崩壊、警察官や保安官への暴力などを議論する際に使われるようになっていく。遅くとも2012年には「オバマ大統領が再選された場合に起こり得る反乱」という意味合いで “Civil War 2: Electric Boogaloo” というフレーズが使われていたそうだ()。


 2018年前半ごろから議論の場はFacebookに中心を移し始めた。IT監視団体の調査によると、4月22日現在でFacebookにはブーガルーを標榜するグループが125も存在し(その60%が2020年に入ってから生まれた)、メンバーは万単位で急増しているという()。


●ダンスとしてのブーガルーと、映画ふたたび


 文化的背景や歴史的文脈を尊重せず、なんでもかんでもネタにして “いじる” ノリが大嫌いなので、憤りにまかせて《この記事でも「ブーガルーはかつて人と文化の混淆を意味する言葉だったが、今や極右勢力による反政府的な運動の符牒になっている」と指摘されている。紆余曲折を経て正反対のニュアンスを帯びてしまったのが嘆かわしい。ジョー・バターンやウィリー・コローンが泣いてるぞ》とツイートしたが、ブーガルー(綴りはboogaloo以外にbugaloo、bugalúもある)は彼らが台頭する何十年も前から音楽好きには親しみのある言葉だ。音楽ジャンルの名前であり、ダンスのスタイルを指す言葉でもある。


 1950年代からブルース/R&B界で使われていたようで、ソングライターのケント・ハリスブーガルー & ヒズ・ギャラント・クルーという名義でシングルをリリースしている。


Boogaloo & His Gallant Crew “Cops and Robbers” (1956年)


 1960年代にはブーガルーを謳った曲が増えるが、きっかけは1965年にミリオン・セラーになったデトロイトのR&Bデュオ、トム & ジェリオの “Boo-Ga-Loo”。翌1966年にはフラミンゴズ“The Boogaloo Party”、1967年にはファンタスティック・ジョニー・C“Boogaloo Down Broadway”ルー・ドナルドソン“Alligator Boogaloo” などがヒットした。


Tom & Jerrio “Boo-Ga-Loo” (1965年)

 “ソウルの帝王” ジェームズ・ブラウンも、1964年にテレビ番組でブーガルー・ダンスを披露している。1966年にはシングル “James Brown's Boo-Ga-Loo” とアルバム James Brown ‎Plays New Breed (The Boo-Ga-Loo) もリリースしており、このころにはブーガルーがニュー・ブリード=新種として認知されていたことがわかる。


ブーガルーを踊るJB


 僕はダンスには不案内なのだが、ブーガルー・ダンスの発祥は1960年代のシカゴのアフリカン・アメリカン・コミュニティに求められるようだ。これがトム & ジェリオを刺激し、 “Boo-Ga-Loo” や “(Papa Chew) Do The Boo-Ga-Loo” (1966年)、 “Karate Boo-Ga-Loo” (1967年)ほか一連のブーガルー・ソングが生まれた。


 ブーガルー・ダンスは1960年代後半からカリフォルニア州オークランドで独特の発展を遂げていく。3-D(アニメーション、ダイナソーとも)、ロボットといった数々の新しい動きが生み出されるが、どれも映画やカートゥーンの動きにヒントを得ているのが面白い。ポッピング1970年代後半にここから派生したものらしい。


オークランドのチーム、ブラック・メッセンジャーズの

チャック・パウエルがブーガルーの基本動作を示す動画


 エレクトリック・ブーガルーはブーガルーとポッピング、1960年代終わりにドン・キャンベルが開発したロッキングなどの動きを組み合わせて1970年代後半に生まれ、ヒップホップ以降も踊られ続けている。ダンサーのひとりブーガルー・シュリンプBreakin' シリーズに出演しているし、マイケル・ジャクソンにムーンウォークやポッピングを教えた人物としても有名だ。代表的なチームはブーガルー・サムが率いるエレクトリック・ブーガルーズ。 いまも現役で日本を含む世界各地で講演やワークショップを行っている。


エレクトリック・ブーガルーズが1979年に Soul Train に出演したときの映像


 Breakin' 2: Electric Boogaloo のタイトルはここに由来する。そもそも前作 Breakin' は前年の Flashdance (邦題『フラッシュダンス』)記録的ヒットを受けて、そこでフィーチャーされていたロック・ステディ・クルーによるヒップホップ・ダンスに可能性を見出したキャノン・フィルムズが製作した映画である。同年の Beat Street『ビート・ストリート』)Body Rock (日本未公開)、1985年の Krush Groove (『クラッシュ・グルーヴ』)とともにストリート・ダンス映画のブームを巻き起こした。


 ちなみにここには、1983年に公開された Wild Style (『ワイルド・スタイル』)Style Wars (『スタイルウォーズ』)からのヒップホップ映画の系譜(1985年の Breakin' シリーズ第3弾 Rappin' (『ダウンタウン・ウォー』)を含む)も絡んでくるのだが、それはまた別の話。


 Breakin' は興行収入3800万ドルに迫るブロックバスターになった。オリー & ジェリーによるテーマ曲 “Breakin'... There's No Stopping Us” も『ビルボード』誌のダンス・チャートのトップに達し、ポップ・チャートでも米9位、英5位と大ヒットした(続編のテーマ曲 “Electric Boogaloo” は45位)。


オリー & ジェリー "Breakin'" と "Electric Boogaloo" シングルジャケット

主題歌はどちらも日本でも発売された


 Breakin' 2: Electric Boogaloo も、YouTubeに公開されているクリップを見る限りそれなりに楽しめそう。当たり前といえば当たり前かもしれないがブーガルー・シュリンプ(ターボ役)たちの動きはすばらしく、撮影も悪くない。例えばカメラを動かしてターボを天井まで踊り登らせたシーンはなかなかの見ものだし、下に貼ったダンス・バトルのシーンなんて音楽も含めて最高である。ラッパーの声がアイスTっぽいなと思って調べたらビンゴで、 "Reckless Rivalry (Combat)" という曲。サントラ盤に収録されなかったばかりか、いまだにリリースされていないのだとか。


この曲のプロデューサーはDJ Chris "The Glove" Taylor

David Storrsの二人。カッコいいエレクトロ・ラップ!


●1960年代のNYで生まれたラテン・ブーガルー


 トム & ジェリオはブーガルーという言葉をニューヨークのスパニッシュ・ハーレム発祥としているが()、ニューヨーク大学教授も務めたラテンアメリカおよびラティーノ(ラテンアメリカからの移民とその子孫)文化の研究者フアン・フローレスは、著書 From Bomba to Hip-Hop: Puerto Rican Culture and Latino Identity (2000年) で逆にラティーノのミュージシャンたちがR&Bからその言葉をアダプトしたことを示唆している。


フアン・フローレス『From Bomba to Hip-Hop』書影

文句なしの名著!


 ラテン・ブーガルーは、ラティーノが暮らすニューヨークのイースト・ハーレムもしくはスパニッシュ・ハーレム(住人たちは “エル・バリオ” と呼ぶ)で生まれた、キューバ音楽とアフリカン・アメリカン系ポップ音楽のフュージョンだ。人種が入り混じったダンスフロアでミュージシャンたちが “誰もが踊れる音楽” を追求して生み出したものであり、戦前から圧倒的な人気を誇ったマンボチャチャチャの牙城を、それらと同時にR&Bやドゥーワップを聴いて育った世代が揺るがしたジェネレーション・ミュージックでもある。


ティト・プエンテ楽団@パレイディアム・ボールルーム

マンボのメッカ、パレイディアム・ボールルームで撮影されたティト・プエンテ楽団の写真


 R&Bブーガルーをラテン・ブーガルーに変えたのが誰だったのかは明らかになっていないが、この言葉を自分の音楽に最初に使ったのは1945年生まれのリカルド・“リッチー”・レイという説が根強い。レイは1966年のアルバム Se Soltó (On the Loose) のライナー・ノーツでブーガルー(bugalooと表記)を新しいリズムとして紹介した。 《ファンキーなチャチャ》を演奏したときの観客の動きに魅了されたのをきっかけに調査と研究を重ねて編み出したものだとある。ただし、ざっと見ただけでも1965年にボビー・バレンティンの1stアルバム Young Man with a Horn“Batman's Boogaloo” という曲が収められているし、調べればまだ出てきそうだ。やはり昔の事実を確定させるのは難しい。


Ricardo Ray “Danzón Bugaloo” (1966年)


 レイはブーガルーを《ラテン・アメリカの音楽とダンスと、もっと人気のある非ラテン的なダンスをつなぐ初めての本物の架け橋と規定しているが、この認識はやや不正確かもしれない。というのも、ブーガルーを先駆けること20年以上、マリオ・バウサマチートの試み、さらにディジー・ギレスピーチャノ・ポソの協働があって生まれたアフロ・キューバン・ジャズがあるからだ(この件はあとでもう少し突っ込む)。


 ラテンとR&Bのフュージョンもブーガルーより少し前から存在した。1963年にヒットしたモンゴ・サンタマリアによるハービー・ハンコックのカヴァー “Watermelon Man” や、レイ・バレット“El Watusi”ジョー・クーバ・セクステット“To Be with You” といった曲には確かな “ラテン・ソウル” 的ハイブリッド性が見出せる。


Mongo Santamaría "Watermelon Man" (1963年)


  “Heat!” (1968年)などで知られるプーチョ & ヒズ・ラテン・ソウル・ブラザーズを率いたパーカッショニストのヘンリー・“プーチョ”・ブラウンいわく、ブーガルーとは「バックビートを効かせたチャチャ (Cha-cha with a backbeat)」。実演家らしい、たいへんムダのない形容だ(リカルド・レイが《2拍めと4拍めを強調する》と言っていたのとも一致する)。


 ブーガルーを定義するのはリズムだけではない。メロディ、コード、構成、英語の歌詞、歌の発声もそうだ。初期ロックンロール的な曲からジャジーな曲、ファンキーな曲まで、いろんなスタイルがブーガルーと呼ばれていた。1枚のアルバム、ひとつの曲の中でも英語とスペイン語が入り混じっている。ニューヨーク生まれのプエルトリカン= “ニューヨリカン” のバイリンガル文化を色濃く反映した音楽性といえよう。


●ジョー・クーバ・セクステットがミリオン達成


 ジョー・クーバ(1931年生まれ)・セクステットの歌手だったジミー・サバテールは1966年のある夜、ブーガルー最大のヒット曲 “Bang Bang” が誕生した瞬間をこう振り返る。「マンハッタンのクラブで演奏したとき、フロアは黒人客でパンパンだった。チャチャやマンボを演奏しても誰も踊らない。俺は彼らを盛り上げる曲を思いついた。ジョーに頼み込んで了承を取ると、ピアノのニック・ヒメネスに指示してあのリフを弾かせ “ビビッ、ハー” のかけ声を乗せたんだ。俺が立ち位置に戻る前にフロアは大熱狂していたよ」。結果的に同曲は100万枚を売り、ブーガルー・ブームに特大の火をつけた。


Joe Cuba Sextet “Bang Bang” (1966年)


 サバテールはナット・キング・コールを尊敬していたし、この時期にデビューした歌手たちの多くはラテン音楽回帰以前にドゥーワップのグループを組んでいた。アフリカン・アメリカンの音楽を当たり前に摂取して育った世代なのだ。ジョー・クーバ・セクステットの初代専属歌手であるウィリー・トーレスは「ニューヨークで生まれ育った俺たちは、スペイン語を上の世代みたいに流暢には話せない。だからジョーに “英語でやろうぜ” と提案した。そしたらうまくいったんだよ」と語っている。


 ジョー・クーバ・セクステットはもうひとつブーガルー史に残る重要曲を残している。“El Pito (I'll Never Go Back to Georgia)” (1965年)がそれだ。ラテン音楽とR&Bのフュージョンをブーガルーという名前で呼んだのはリカルド・レイが最初だったらしい、とさっき書いたが、その根っこは彼の想像よりも深いことを証明する曲なのである。


Joe Cuba Sextette “El Pito (I'll Never Go Back to Georgia)” (1965年)


 ラテン音楽学者マックス・サラサールの著書 Mambo Kingdom: Latin Music in New York (2002年)によると、 “El Pito” を書いたジミー・サバテールとニッキー・ヒメネスは、この曲のインスピレーションをディジー・ギレスピーの “Manteca” から得たという。言われてみるとリフも心なしか似ているし、 “I'll never go back to Georgia, never go back” のガヤ的なチャントは明らかにここから引っ張っている。


Dizzy Gillespie “Manteca” (1957年)


 “Manteca” のジョージア・チャントはチャノ・ポソとの初吹き込み(1947年)には含まれないが、上掲のニューポートでの演奏のように、ライヴではいろんな形で歌われた。黒人差別的なジム・クロウ法が1964年まで残っていた南部には戻りたくない、というサウスカロライナ州出身のギレスピーの思いが込められたフレーズのはずだが、サバテールにピンときたのはこのフレーズが “音” としてラテン調のリフに完璧に合っていたからにすぎない。なにしろ当時のセクステットのメンバーにはジョージア州に行ったことのある者がいなかったというのだから。


 この曲には笑える後日談がある。ある日、クーバが所属していたティコ・レコーズのオフィスにいたときにレーベル・オーナーのモリス・レヴィ(彼は他にもたくさんのレーベルを経営していた)が電話をとると、ひどい南部訛りの男性がクーバと話したいと言う。クーバに替わったところ「ミスター・キューバ、こちらはジョージア州知事の事務所なんですがね、 “ジョージアには絶対に戻らない” とはどういうことですかな?」と質された。ツアー招聘を検討していることを察知したクーバは、とっさにこう答えたという。「ジョージアっていうのはガールフレンドの名前なんですよ。ずいぶんひどいふられ方をしたもんですから、彼女のところには戻りたくない、と歌っているんです」


●1966〜68年──短かったブーガルー黄金時代

 

 1932年生まれのバンドリーダー、ピート・ロドリゲスが大物バンドの前座を引き受け、ブッキング・エージェントにラジオで流す公演の宣伝に使う曲を頼まれて一日で書き上げレコーディングしたのが “I Like It Like That” だ。1950年代末から活動していたものの前座ばかりでうだつが上がらなかった彼らは、同曲がラジオで流れると一夜にして大スターになった。ロドリゲスも歌手のトニー・パボーンも「自分が中心になって作った」と言っているのはよくある話である(作者クレジットはパボーンとパーカッショニストのマニー・ロドリゲス)。


Pete Rodríguez “I Like It Like That” (1967年)


 “I Like It Like That” はブーガルーの代表的なヒット曲のひとつである。演奏はアマチュアっぽいが、 “Bang Bang” にも通じるそのB級感、破天荒なエネルギーこそが抗いがたく魅力的だ。スーパーグループのブラックアウト・オールスターズによるカヴァー(1994年)がバーガー・キングのCMで流れたり、ゲームや映画のサントラに使われたり、2018年にはカーディ・B“I Like It” にサンプリングされている。


 1966年はマンボのメッカとして栄華を誇った名門ナイトクラブ、パレイディアム・ボールルームが閉店した年でもある。ニューヨークのラテン音楽の主役は若く荒々しいブーガルーに交替した。黄金時代とされる1967~68年にはたくさんの新人がデビューした。レブロン・ブラザーズ“Summertime Blues” 1967年)、TnTバンド“The Meditation” 1968年)、ラティネアーズ“Creation” 1968年)、ラテン・ソウルズ“Tiger Boogaloo” 1968年)、ラティーンズ“Louie, Louie” 1968年)などなど。多くは長く活躍できなかったが、例外がジョー・バターンとウィリー・コローンである。


 1942年生まれのジョー・バターンはフィリピン人とアフリカン・アメリカンの両親のもとに生まれ、エル・バリオで育った。生育環境からしてマルチカルチュラルだったわけだ。十代のころはギャングで鳴らしたが、獄中でピアノを学び、1967年にインプレッションズのカヴァー “Gypsy Woman” でデビューするといきなりヒット。彼自身のストリート・ライフから生まれた楽曲でコミュニティ外にアピールした。ただし彼はブーガルーという言葉を嫌い、自分の音楽をラテン・ソウルと呼んだ。ディスコの時代にも “Rap-O Clap-O” (1979年)などをヒットさせ、現在も世界各地をツアーしている。


Joe Bataan “It's a Good Feeling (Riot)” (1968年)


 1950年にサウス・ブロンクスで生まれたウィリー・コローンは12歳でトランペットを始め、14歳のときにトロンボーンにスイッチ。高校を中退して15歳でファニアと契約し、17歳でデビュー・アルバム El Malo (1967年)を発表した。ブーガルー勢には珍しくインスト要素が強く、プロデューサーにあてがわれた21歳(1946年生まれ)の歌手エクトル・ラボーの歌声もすばらしい。コローンはサルサ界きっての先進的で多作なバンドリーダーとして長く活躍し、いまや政界にも存在感を発揮する名士である。ラボーも1993年に46歳の若さで亡くなるまでトップ・アーティストであり続けた。


Willie Colón “Willie Baby” (1967年)


 彼らに加え1941年生まれのボビー・バレンティン (“Funky Big Feet” 1967年)、1942年に生まれたジョニー・コローンニュー・スウィング・セクステット“Monkey See Monkey Do” 1967年)や先に挙げた新人バンドたちなど、当時の10〜20代がいわば “ブーガルー世代” ということになる。


Johnny Colón “Boogaloo Blues” (1967年)


 ブーガルーの代表的なヒットを生んだジョー・クーバやピート・ロドリゲスはひとつ上の世代だったが、1929年生まれのレイ・バレット (“Soul Drummers” 1968年)、1930年生まれのウィリー・ロサリオ“Let's Boogaloo” 1968年)、1933年生まれのエクトル・リベーラなどベテランも戦線に参入。1917年生まれのモンゴ・サンタマリア (“We Got Latin Soul” 1969年)、1923年生まれのティト・プエンテ“Pata Pata”1968年)、1916年生まれのペレス・プラード“Boogaloo de la Niña Bonita” 1968年)といった大御所たちもブーガルーに手を染めた。


Héctor Rivera “At the Party” (1966年)


 しかし彼らはのちにブーガルーを「一時的な流行りもの」「ろくに演奏もできない連中」と批判する。1936年生まれのエディ・パルミエリはその急先鋒であったが、1968年の “¡Ay Qué Rico!” は見事なブーガルー・ソングである。冒頭でチェオ・フェリシアーノ(1935年生まれ)が「パルミエリ、ブーガルーってなんだい?」とシャウトしている通り “あえてのブーガルー”。若手に「プロを名乗るならこれくらいやってみろ」と見せつけているかのようだ。


Eddie Palmieri “¡Ay Qué Rico!” (1968年)


 ブーガルーはラテン音楽業界の勢力図をも塗り替えた。1934年生まれの弁護士ジェリー・マスッチと1935年生まれのバンドリーダー、ジョニー・パチェーコが1964年に設立したファニア・レコーズアレグレティコシーコといった先達の後塵を拝していたが、バターンやコローン、ラリー・ハーロウラルフ・ロブレスモンギート・サンタマリアラルフィ・パガーンら新人を積極的に売り出して一気に追いつき、次のディケイドに覇権を確立する礎を築いた。


 ブーガルーの黄金時代は極めて短く、1969年にはほぼ終息していた。“Fortuna” (1967年)などで知られるキング・ナンドは「ブーガルーは廃れたんじゃない。嫉妬した年寄りのバンドリーダーやプロモーター、DJに殺されたんだ」と主張する。パッケージ契約を強いられて安いギャラで一日に何か所も演奏させられ、ミュージシャン同士で結束して値上げ交渉をしようとするとラジオでかけてもらえなくなってしまったのだという。


 一方、ベテラン側からするとブーガルーは一過性の流行にすぎず、自然と消え去っただけということになる。ティト・プエンテはジョー・クーバ・セクステットの “Bang Bang” が “オフ・クラーベ” (シンコペーションするキューバン・リズムを正確に奏でていない)だと批判した。1970年代にファニアが中心となって売り出したサルサがR&Bやファンクの要素を排し、アフロ・キューバンのルーツに回帰していったのも頷ける。路線変更によってニューヨリカン音楽はさらに市場を拡大していくが、その先頭に立っていたのが、プエンテが “ガキのバンド” と評したウィリー・コローンだったのは面白い。


 ブームは海外にも波及し、中南米やカリブ海諸国にはたくさんのフォロワーが生まれたそうだ。今回は周辺まで手が及ばなかったが、いつか調べてみたい。


 日本でも “ブーガルー歌謡” がいくつか生まれた。寺内タケシバニーズ「レッツゴーブガルー 」「サマーブガルー」ハプニングス・フォー「アリゲーター・ブーガルー」「すてきなブーガルー 」、ホワイト・キックス「アリゲーター・ブーガルー」(ハプニングス・フォーと競作)、マミーズ「二人のブーガルー」、環ルナ「ブーガルー・ダウン 銀座」、美川サチ「ビン・ビン ブーガルー」など。すべて1968年(昭和43年)に発売されているのが興味深い。なお「アリゲーター・ブーガルー」はルー・ドナルドソンのカヴァーである。


ブーガルー歌謡のジャケット集

環ルナ「ブーガルー・ダウン 銀座」(1968年)


 2016年にブーガルーのドキュメンタリー映画 We Like It Like That: The Story of Latin Boogaloo が作られた。トレーラーを見るとジョー・バターン、ジョニー・コローン、リカルド・レイ、ピート・ロドリゲスなど多くの生き証人たちが登場しているようだ。アメリカではAmazonプライム・ビデオで見られるが日本では見られない。残念至極である。


映画『We Like It Like That』ポスター

We Like It Like That のポスター


●どこまでもロマンチックなブーガルー


 僕がブーガルーを知ったきっかけはイギリスのリイシュー・レーベル、チャーリー・レコーズのサブ・レーベルであるカリエンテから出たコンピ盤 We Got Latin Soul (1987年)とその Vol. 2 (1988年)である。サルサもろくに知らなかったころだ。アルバムはなかなか入手できなかったが、徐々にCD化されたファニアのカタログ(ひどい音質だったが)を手始めに少しずつ聴いていった。


カリエンテ・レーベルが出していたラテンの編集盤ジャケット集

カリエンテはブーガルーだけではなくマンボやサルサのコンピも多数リリースしていた


 いまだに詳しくはないが、ウィリー・コローンの El Malo やジョー・バターンの Riot! (1968年)、レイ・バレットの Acid (同)、ジョー・クーバ・セクステット Wanted Dead or Alive (Bang! Bang! Push, Push, Push) (1966年)、ルイ・ラミレス Vibes Galore (同)といったド定番から、ブームがプエルトリコに還流したエル・グラン・コンボ(1967年)、ラテン・ディメンションIt's a Turned on World (1968年)やニュー・スウィング・セクステット The Explosive New Swing Sextet (1967年)、レブロン・ブラザーズ Psychedelic Goes Latin (同)、TnTバンド Mission Accomplished (1968年)らみじかくも美しく燃えた若手たち、ラルフィ・パガーンの Ralfi Pagán やモンギート・サンタマリア Hey Sister (いずれも1969年)などブーム末期の徒花まで、好きなアルバムはたくさんある。


ブーガルーの名盤ジャケット集

 僕はなぜブーガルーに惹かれるのか。その理由を考えてみた。


ハイブリッドであること……別の記事にも書いたが、ラテンとソウル/ファンクの要素が混ざった曲には無条件に心が浮き立ち体が動いてしまう。


ワルであること……自分には不良性は皆無だが昔から不良っぽい音楽は大好き。ウィリー・コローンが初期のアルバム・ジャケットでギャングのコスプレをしまくっているが、眺めているだけで幸せになる。


ウィリー・コローンがギャングにコスプレしたレコードジャケット

ユーモアがあること……コローンのコスプレはいかにも若輩のヤサ男然とした容貌を逆手にとったふざけである。調子が超絶的にいいだけでほぼナンセンスな “Bang Bang” を筆頭に、初期ロックンロールっぽいノヴェルティ(新奇)性も大好物だ。


自由であること…… “Bang Bang” や “I Like It Like That” が半ば即興的に生まれたことに象徴される、アイデア一発で押し切るノリのよさと、ガヤガヤとプレイフルな雰囲気、闇雲なエネルギー。演奏は二流でも否応なくワクワクしてしまう理由にはそれもある。


夢があること……やせっぽちのラティーノの若者が一攫千金あるいは更生のために音楽に情熱のすべてを傾け、おしゃれにキメて甘〜いボレーロを歌い上げる。スペイン語を上手に話せないニューヨーク育ちのプエルトリコ系の移民の子がルーツに思いをはせる。演奏はヘタだが精いっぱいカッコつけて、マンボ世代の大御所に対抗してラテン音楽の新世代をアピールする──そうした演奏者の思いが音の隅々から滲み出てくるようで、想像力をかき立てられる。


ダンスのための音楽であること……これはあらゆる大衆音楽に言えることだが、音色やかけ声のひとつひとつに、それを聴き、踊り、一緒に歌ってひととき日常の憂さを忘れる聴き手の顔が思い浮かぶ。そうした人たちの “逃避” のために演奏し歌う姿もまた尊い。これは⑤のヴァリエーションだろう。


多面性があること……ラテンだけどソウル。殺伐としつつロマンチック。ユーモラスだがセンチメンタル。踊れるのに泣ける。矛盾ともいえるその成り立ちに僕はむしろ懐の深さを感じるし、人間が生み出したものとして “ちゃんとしている” と思う。一枚岩なものがほしければ音楽なんか聴かない。これも⑤の一部分かも。


 とりあえず以上の七つが思い当たるが、要するにロマンチックなんだな、と思う。アフリカン・アメリカン音楽全般からサルサ、レゲエ(UKもジャマイカも)、バングラ・ビート、在日ブラジル移民のラップなど、移民の音楽全般に感じる魅力と通じる。なのでブーガルー固有の自分にとっての魅力は①に尽きるのかもしれない。女性歌手がキューバ出身のラ・ルーペぐらいしか思い浮かばないのが引っかかるが……(しかも彼女のキャッチフレーズは “ラテン・ソウルの女王” で、ブーガルーとは少しズレがある)。


La Lupe “Fever” (1968年)

スペイン語なまりの英語がカッコいい!


 DJたちにディグされたりヒット曲にサンプリングされて幾度となくリヴァイヴァルしており、いまもブーガルーを演奏するバンドは世界中にいる(例えばクレイジーケンバンドには「なになにブーガルー」が何曲もある)。一過性の流行だったのは事実にしても、そのビートにも文化としての成り立ちにも、時代を超える普遍性があったのだと思う。


 リカルド・レイが1966年に「ラテン・アメリカの音楽とダンスと、もっと人気のある非ラテン的なダンスをつなぐ初めての本物の架け橋」と規定したブーガルー。先に述べた通り「初めての」には疑問符もつくが、ラティーノとアフリカン・アメリカンの音楽とダンスのマリアージュとして、豊潤で複雑なバックグラウンドを持つ “クロスオーヴァー・ドリーム” (サルサ歌手のルベン・ブレイズが主演した1985年の映画のタイトル) だったのは間違いない。紆余曲折があったとはいえ、その言葉が54年後のいま内戦したがりボーイズに使われているのはまことに腹立たしい。ハシノさんと一緒に「かえせ! ブーガルーを」と言いたい。いまこそ『レコード・コレクターズ』誌はガツンとブーガルー特集を!





 追記:ここでは『レコード・コレクターズ』誌に特集を求めましたが、図らずも同じミュージック・マガジン社から出ている『ミュージック・マガジン』が2020年9月号(8月20日発売)でブーガルーを特集してくれました。僕も寄稿したのでぜひ読んでみてください。


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